@ 第3回出張アースワークスクール
授業風景
空き地の教科書をつくる
【日時】 1997年10月27日
【場所】 吉舎中学校
【講師】 岡崎乾二郎(美術家)
【内容】 10月27日吉舎町の吉舎中学校において、中学1、2年生を対象としたアースワークの授業がおこなわれました。
自分の嫌いな教科書をもってくるマ1分間だけ眺めて、コピー機になったつもりで、嫌いなページをコピー(文字や絵を、配置や色の感じで別の紙に再現する)するマ気になった場所(文字、色、記号など)は再現できるが、覚え切れなかった文字やイメージは余白となって残るマ残った余白とは、町でいう空き地であり、何もないけれど、何かを施すことができたり、そのまま放っておくことができるマ落書きを描いてみよう!!マコピーした部分と関係するイメージや文字、全く無関係な絵や記号マいつの間にか、みんな空き地をどうするか考え、そこにその人ならではの何かが表わされます。
1. イメージの置き換え
新聞や雑誌、ポスターなどに使われる写真やキャッチコピー、文字などを別の素材で置き換えることは美術の中でよく行なわれる手法の一つです。例えば余りにも有名になってしまいましたが、アメリカ作家リキテンシュタインのように漫画のコマをそのままキャンバスに置き換えたり(図1)、(図2)のように、小説不思議の国のアリスの文章をキャンバスに描くことや、看板を鉄板で彫刻のようみせ、置き換えることもあります(図3)。
この置き換えが行き着いた先は、マイク・ビドロのように自分で、「これはマチスではない」というタイトルをつけておいて、巨匠の絵をそのまま模倣することになります(図4)。
今回の演習では、この置き換える元が『自分の嫌いな教科書』ということで、そのまま何かに置き換えて作品化することも可能な素材選択がおもしろいといえます。
2. 落書き
落書きと一言で片付けてしまうと、素晴しい美術作品を見逃してしまいます。デビュッフェ(図4)、バスキア(図5)をはじめ、単なる落書きに見えるものが、その時代や社会を見事に反映させる場合も多くあります。特に、意識して描くと陳腐になってしまう図像が、無意識にまさに落書きとして手を動かしていると自分でもよくわからない図像としてでき上がるということがあります。こういった作品を作り続ける作家の多くはドラックや極限状態に身を置くことで、無理に無意識の状況を作りだそうとさえしました。その点、嫌いな教科書を眺めているときはまさに無意識といってもよく、薬に頼らないでこの状況を作り出せるだけでも素晴しい素材といえます。
3. 無関係なものを結びつける
言葉やイメージを扱う際、無関係で、むしろ相反するようなそれをぶつけることで全く別の何か(作品)を作り出す方法があります。デュシャンの定規は、窓から投げて落としたひものかたちからできていますし、ギルバート&ジョージのようにわざわざ花にウ◯コのイメージを添えることで、一つになった何か(作品)を、自分でも見てみたくて作っているような作家もいます。
ここで問われるのは、その方法(意図的な偶然に頼る、意識的に結び付ける、既にある結び付きから発見した結び付きを応用するなど)と過程であり、最終的にでき上がったもの(作品)といえます。特に、今回の演習では、こういった美術的な意味を説明せずに、のように写し取ってもらった絵は、その人が描いたものですが、意図して描かれたものではないまったく違った模様となっています。その新鮮な模様の余白に、落書きがなされ、二つが一つの画面で結びつきます。でき上がったものは、一応教科書ではあるのですが、不思議な模様の入った非常に素晴しい何か(美術作品)となっているのです。
活動の今後
みんなが作ってくれた空き地の教科書を一つにまとめ、例えば空き地教科書美術館に修蔵予定。
目的(山吹私案)
まず、空き地(ダム建設にともない生じる通常は水のない高水敷や、道路や橋をつけることで生じる空き地など)をどう捉えるかということを、教科書という身近な素材を使って考え、捉え直します。教科書の空き地である余白を発見し、そこに自らの落書きという痕跡を残し、空き地に対して、自分がどう関わっていけるのかということを経験します。
この結果でき上がった作品は、何十年何百年か後の遺産(教科書ではあるが美術作品でもある)として残ることを再認識し、同様に現実の空き地に対する意識をより高めることを意図しています。

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