アートドリル
アースワークスクール第8回 基礎造形演習
「芸術の深さを巡って」
より、そのほんの一部を抜粋
日時:平成9年5月25日(月)午後7:00〜 場所:吉舎町中央公民館

■□ 「芸術の深さを巡って」
早春図  今回のテーマは、今までの古今東西の画家たちが一番悩んでいたこと、芸術はどうすれば芸術になるのか、簡単にいえば、今まで見えなかったものをどうやれば描けるのか、絵を通して初めて知ることができる、まあ自然の神秘というものをどう表現するか、その問題が抽象絵画につながっていったということをお話しします。
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 山水画は、ものすごく大胆に描かれているところと非常に繊細に描かれているところがある。自然を顕微鏡で見るようなもので、最初はこんな輪郭だけど、よく見ていくとウィルスが潜んでいるような、見ている視線のレベルを変えるといくらでもみるところがあります。ある意味ではキュビズムと良く似ていて、一人の人間が描き分けたとは思えないスケールの異なる描き方が同時にある。ほんとに飽きないんです。
 大雑把に描いているのか細密に描いているのかわけがわからない。インチキ水墨画は大雑把に描いています。これ(右上図)が中国の山水画で、異様に複雑ですね。
 では中国の山水画家が何を考えていたかというと、常理常形ということです。「アカデミックな画家はデッサン力を持っている」デッサン力というのは、物事の輪郭だとか形をくっきりとより正確に描く力です。白描画といって日本画なんかと同じように、より正確に描くもので、非常に訓練が必要です。
 けれど精密に描けるものは、花であるとか人間であるとか、常形つまり形が定まっているものだけです。ところが形の定まっていないものがある。雲や山だとかいうもの、いつも変化しているもの。けれど我々は雲だとか雨だとか、あるいは奥行きがあるとか、形がないものにも確かさ『らしさ』を感じていて、これは確かに山らしいとか判断する。そうすると、山やら雲やらの形の定まらないものを何によって判断しているんだろう、どうすればそれを表現できるのかということが、山水画の一番の課題だった。
 ここで彼らは常理という、姿かたちは変化していってもいつも同じ原理、ものを作り出すしかけがあると考えました。
 一つは、雲も山の形も自然界のものは全部水の変化によって出来ていると彼らは想定し、川、雲これは全部水が生成変化していることによって起こる。さらに山の形を作りだすのは、雨による侵食作用によっており、基本的には雲も山も全部同じ水の変化を要因としているという。絵は何で描くかというと墨と水ですから、墨がうまい具合ににじんだり、飛び散ったり、つまり絵を描くということは自然を作りだす原理と同じしくみによっているということで、絵を描く事自体が自然であるとし、まず絵によって偶然生みだされる染みであるとかにじみであるとかいうものを、それをそのまま自然形態と置き換えて、そのままスケールアップする技法を使いました。
 それだけじゃ簡単、絵を描くことが自然なんだというアクションペインティングになる。人間の策を入れてコントロールするとわざとらしい絵になるから、絵自体の持つ偶然性を取り入れればよりリアルになるだろうと。しかし本当の課題は、絵という小さく限られた画面に、いかに自然と同様、無限に拡がり、深まる奥行きを与えるか、でした。
 簡単に言うと、西欧の遠近法というのは一点消失点、それに対して山水画は高遠、深遠、平遠という三遠法があるといわれます。
 しかし、奥が深い山水画は「高にして遠なし、深ありて遠なし、平ありて遠なし」という。つまり単なる構図法でやったとしても遠がない場合がある。
 漢文の教養のない人間には、深遠というのは、深と遠は同じ意味ではないのか「深ありて遠なし」とはどういうことなのかと思う。これからが難しい理屈ですが、これは一言でいうと「深ありて遠なし」というのは、絵が平に見えてしまう、視点の移動が起こらないということです。
 遠近法で描かれていると知らなければ、小さい犬なのか、遠くにいる犬なのかわからないという遠近法のパラドックスと一緒で、今ここに見えてるものが存在の全てではない。片面しか人間の目は見えないわけですよね、ここ(画面の中のひとつの場所)からしか見えない。ところが遠くから離れて見るということでは、実際の山を見ているときと、絵を見ることと区別がないわけですよね。だからこれ(画面)が窓だとしたら、窓から見ている山と実際の山は同じ感じ、本当に絵がうまくなるとそっくりに見えるはずです。
 にも関わらず、一方が本物っぽくないとしたら、もう一方は、歩いていった裏側に沼があるかもしれない、中に入って行けそうだと予期させるものがある。それを遠とした。ここに奥行きがあるかどうかというのは見かけの問題ではない。今見えないところが向こう側にある、後から見えてくる、具体的に言うと変化ということで、この山は次に違う姿になるかも知れない、変化するかもしれない。単なる静止した構図でないこの変化が遠。  人がこの中に入って山に登って行ったら、違う風景が出てくるかもしれない。山水画のいいものはじーっと見ているといつの間にか絵の中に入って行っちゃって、深山の中で迷ったような気がします。文字どおり絵に本当にリアルな奥行きがある。見ることが歩くことのようになって、見ていると次々と、新しい景色があらわれる。
 つまり、隠れている部分を絵にするということ、高遠、平遠、深遠というのを構図の違いだとしたら、基本的には視角の違いの問題にすぎない。今、見えてるというだけの角度の問題です。遠というのはその構図と構図のあいだ、視角から視角へのつながり、変化をどう描くか、見ても見ても飽きない絵をどう描くかということなんですね。これは、自然の変化を楽しむ庭の作り方ともつながります。


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