◎ リアリティのありか |
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1994年に助手として参加して以来、3年間このプロジェクトに関わってきていますが、今だに漠然とした戸惑いに囚われることがあります。 |
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初めてこの地に足を踏み入れたときは、出身地でもある府中市(ここ灰塚より車で約1時間)より遥かに田舎のこの地に素直に驚き、そびえたつ山やそのあいだを縫うように走る小川や小道に『自然』と簡単には言葉にできない新鮮さを感じました。 |
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単に緑が多く残っているといった環境のせいでもなく、昔ながらのかっこうで町を行きかう住民の方々をみたからでもなく、どこか取り残されているような、だからこそ残っている何かに対し、意識の片隅では反発を感じながらも感覚として心地よく受け入れてしまっていました。 |
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もちろん当時から、情報として、この場所にダムができるということは知っていました。知ってはいましたが、2年前はまだ家も他の建物もほとんどかわりなく残っており、それらがあとわずかで取り壊されてしまうということが実感をもっては感じられませんでした。 |
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2年が経ち、確かに家や建物はなくなりました。しかし、まだダムができるということに関するリアリティはありません。それどころか、昔の何もない状態、人の住んでいない環境のほうがあたりまえのように思え、ダムができるということの実感が更に遠のいていくようです。 |
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おそらくダムができるというリアルな感覚を獲得したときには、逆にその現実の速度についていけなくなるのでしょう。だとしたら、とりあえず漠然としか認識できない現状に対し、想像で向かい合っていくしかありません。それは、間違いや勘違いでしばしば余計捉えにくくなるのかもしれません。それでも何らかの働きかけは、次の動作を生みます。○×式の正解があるわけでもありませんから、よりよい状態へ手探りで進むしかないのでしょう。 |
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ダムができるということとダムができるということが契機となって、普通の状況がより鮮明に見え始めたということ。リアルさのありかは、結局自分のそばに見え隠れしています。 |