大鹿智子作品+朗読(総領町議場)

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マルグリット・ユルスナール原作
『死者の乳』より

だが突然彼女は口をつぐんだ。路傍に横たわった若い夫がまぶたを動かさないこと、彼の黒い髪が脳髄と血で汚れていることに気がついたのです。そこで、彼女は泣き叫びもせず涙も流さずに、塔の円型の外壁に設けられたくぼみのところまで、二人の兄に連れられて行きました。みずから死にに行くのだから、泣くのを抑えることができたのです。しかし、紅いサンダルをはいた自分の足の前に一つ目の煉瓦が置かれたとたん、じゃれる子犬のように母親の靴をしゃぶる癖のある赤ん坊のことを想い出しました。熱い涙が頬を流れ落ち、今しも石の上に鏝で平らに塗られているセメントにまじりました。
――ああ、わたしの小さな足。この足はもう丘の頂までわたしを運んでいかないいとしい人のまなざしにこのからだを早くさし出そうといそぐわたしを。この足はもう流れる水のさわやかさも知ることはないでしょう。天使だけが、復活の日の朝、この足を洗ってくださるでしょう。
煉瓦と石とが、金色のスカートに覆われた膝のところまで積み重ねられました。壁龕の奥に直立した彼女は、祭壇のうしろに立つマリア像のようでした。
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