大鹿智子作品+朗読(総領町議場)
原作『死者の乳』  マルグリット・ユルスナール
むかし三人の兄弟がいて、塔を建てるために働いていました。敵の略奪を見張るための物見の塔です。兄弟は、自分たちでその建設をしていて、三人の女房たちは代わりばんこに食事を運んでくるのでした。しかし、工事がまずまずうまく行って、屋根組みの上に草の束を置く段になると、きまって夜の風と山の魔女が、兄弟の塔を崩してしまうのでした。塔が建たない理由はいくらでもありまっす、職人の腕がわるいとか、地盤がしっかりしていないとか、石をつなぎ合わせるセメントが不充分だとか。しかし農民たちの考えでは、一人の男か女かを基盤のなかに閉じこめておくという配慮を怠ると、建物は崩れるのです。その人の骸骨が、最後の審判の日まで、石の重い肉を支えるというわけで。そんな風にして橋のあしに若い娘が埋めこまれたこともあります。娘の髪が裂け目から少しはみ出て、ブロンドの草のように水に垂れているのです。そのうち三人兄弟は互いを不信の目で見るようになり、自分の影が未完成の壁にうつらないよう気をつけていました。というのは、人間の延長である黒い影は彼の魂なので、建築中の建物に影をとじこめられることもありうるのでした。そんな風にされた男は、死んでしまうのです。
夜になると三人兄弟はそれぞれ火からできるだけ遠くに坐るのでした。誰かが後ろからそっと近づいて、自分の影の上に布袋を投げかけ、黒い鳩みたいに半ば締め殺されかけた影を塔のところへ運んで行きはしないかと恐れていたのです。仕事にうちこむ熱意もよわまり、もはや疲労のせいではなく苦悩のために、彼らの日焼けした額には油汗がにじむのでした。とうとうある日、兄が弟たちをよびあつめてこう言いました。
――弟たち、もしおれたちの塔が出来上がらなければ、敵は茂みにかくれてこの湖の岸にまたしても忍びこむことだろう。あいつらは畑で働く女たちを犯し、パンをもたらしてくれる麦を焼いてしまうだろう。果樹園に立てた案山子に百姓を磔刑にして、烏の餌にしてしまうだろう。弟たちよ、おれたちは互いに互いを必要としている。三つ葉のクローバーの一葉を犠牲にするなんて問題外だ。だがおれたちはっそれぞれ女房がいる。若くて元気で、肩もきれいな、重い荷を担ぐのに慣れた女たちだ。何も決めないでおこう、弟たちよ、神さまの偶然に選択を任せよう。明日、夜明けに、その日の食べものを運んでくる女房をとらえて、塔の礎のなかに埋め込むことにしよう。おまえたちには、たった一晩だけ黙っていてもらえばいい。
彼にとってこう話すのはたやすいことでした。なぜかというと彼はひそかに若妻を嫌っていて、彼女を厄介払いしてその代わりに栗色の髪の美しい娘を嫁にほしいと思っていたからです。上の弟は文句を言いませんでしたが、これは家に帰ったらすぐ妻に知らせるつもりだったからで、異議を申し立てたのは末の弟だけでした。彼は誓いを守る男だったからです。けれど弟は遂に説得され、一晩沈黙を守る約束をしていました。
死んだ光の亡霊がまだ野をさまよっているあのたそがれの時刻に、兄弟は仮住まいの小屋にもどって行きました。上の弟はテントに入るとひどく不機嫌な顔をして、長靴を脱ぐのを手伝えと荒々しく妻に命じました。彼女が自分の前にしゃがみこむと、彼は履き物をその顔に投げつけて、こう言い渡したのです。
――ここ一週間も同じシャツを着ているんだぞ。この分だと日曜日にこざっぱりと白い肌着を着ることもできやしねえ。明日、朝早くに洗濯籠をかかえて湖へ行ってこい。ブラシと洗濯べらをもって、夜まで湖のそばに居るんだぞ。
若い女房はぶるぶる震えながら、翌日一日洗濯にかかりきる約束をしました。
兄は妻に何もいうまいと決心して家にもどりました。彼女の重たい美しさをもう少しも感じなくなっていて、うとましかったのです。けれども彼には弱点があった、というのはつまり、寝言をいうのです。妻はその晩眠りませんでした。すると突然、自分の夫が掛けぶとんを引き寄せながらむにゃむにゃ言うのがきこえました。
――かわいいかわいいおれさま、おれさまはもうすぐ寡夫だぞ……せいせいするだろうなあ、この女と、塔の煉瓦でひきはなされて……
しかし末の弟は、帰り途に、大鎌を肩に担いで人々を刈り入れに行く死神に出逢った男のように、色蒼ざめ、しおれきってテントに帰りつきました。柳で編んだ揺りかごの赤ん坊にくちづけし、若い妻をやさしく腕に抱きました。一晩中、夫が自分の胸に顔を寄せて泣いているのが聞こえていたが、控え目な若妻はこの大きな苦悩の原因を問いたださなかった。というのは、打明け話を強いるのもいやだったし、悩みを慰めるのに悩みの種を知る必要もなかったからです。
翌朝、三人の兄弟は鶴橋と金槌をもって塔の方へと向かいました。上の弟の女房は洗濯物を籠に入れて、兄嫁のところへ行ってひざまずいて言いました。
――お姉さま、今日はわたしが男の人たちのところへ食事を運んで行く番ですけれど、うちの人ったら、白地のシャツを洗っておかないと殺すなんて言うんですよ。ほら、洗濯物が籠にいっぱいでしょ。
――そうなの、と兄嫁はこたえて言いました。わたしが代わりに食べものを届けてあげるといいのだけれど、あいにくゆうべ、悪魔めがわたしの歯の中に忍びこんで…… おお、うう、痛くて痛くて声をあげずにはいられないわ……
そこで彼女は手をたたいて末の弟の嫁を呼びました。
――ねえ、末の弟のお嫁さん、かわいいちいさいお嫁さん、わたしたちの代わりにうちの人たちに食事を運んで行ってくださらない?道は遠いし、わたしたち足が疲れているの。私たちはあなたほど若くもないし、身軽でもないのよ。ね、行ってちょうだい、そうすればおいしいものを籠にいっぱい入れてあげるわ、男の人たちがにっこりしてあなたを迎えてくれるようにね。
というわけで、籠は湖の魚の蜜漬だの、葡萄の葉にくるんだご飯だの、羊の乳でつくったチーズだの、塩味のアーモンド入りの菓子だのでいっぱいになりました。若い女は赤ん坊を兄嫁たちの腕にそっとあずけて、たったひとり路を歩いて行ったのです。頭に重い籠をのせ、聖なるイコンのメダルのように首に運命を巻きつけて。
遠くから、まだ誰ともよくわからない小さな女の影を見つけたとき、三人の男は走り寄りました。上の二人は自分のたくらみがうまく行ったかどうかあやぶみながら、末の弟は神に祈りながら。兄はやってきたのが自分の妻でなかったものですから、でかかった呪いの言葉をぐっと呑みこみ、次の兄は洗濯女房を見のがしてもらったことで神様に大声で感謝しました。しかし弟はひざまずいて若い妻の腰を腕で抱き、呻きながら許しを乞いました。それからすぐ、兄たちのもとにひれ伏して、憐れんでくれるよう願いました。遂に彼は立ち上がり、兄たちに向けて短刀をきらめかせたと同時にうなじに金槌を振りおろされ、あえぎながら倒れました。愕いた若妻は籠をとり落とし、散らばった食料が野犬の群をよろこばせることになりました。事の次第を悟った彼女は、天に手をさしのべて、
――わたしはお兄さまがたのためにならないことを何ひとつしたことがありません。結婚の指輪と司祭様の祝福によって兄妹の縁でむすばれたお兄さまがた、どうかわたしを死なせないで。わたしは生きているのがとても好きなのです。うちのひととわたしとの間を分厚い石の壁で隔てないでくださいまし。
だが突然彼女は口をつぐんだ。路傍に横たわった若い夫がまぶたを動かさないこと、彼の黒い髪が脳髄と血で汚れていることに気がついたのです。そこで、彼女は泣き叫びもせず涙も流さずに、塔の円型の外壁に設けられたくぼみのところまで、二人の兄に連れられて行きました。みずから死にに行くのだから、泣くのを抑えることができたのです。しかし、紅いサンダルをはいた自分の足の前に一つ目の煉瓦が置かれたとたん、じゃれる子犬のように母親の靴をしゃぶる癖のある赤ん坊のことを想い出しました。熱い涙が頬を流れ落ち、今しも石の上に鏝で平らに塗られているセメントにまじりました。
――ああ、わたしの小さな足。この足はもう丘の頂までわたしを運んでいかないいとしい人のまなざしにこのからだを早くさし出そうといそぐわたしを。この足はもう流れる水のさわやかさも知ることはないでしょう。天使だけが、復活の日の朝、この足を洗ってくださるでしょう。
煉瓦と石とが、金色のスカートに覆われた膝のところまで積み重ねられました。壁龕の奥に直立した彼女は、祭壇のうしろに立つマリア像のようでした。
――さようなら、わたしのいとしい膝。この膝はもう赤ちゃんをゆすることもない、養いの糧と日蔭とを与えてくれる果樹園のきれいな木の下に坐って、この膝においしい果物をいっぱいのせることもない。
壁はもう少し高く積まれ、若い女は言葉をつづけました。
――さようなら、わたしのかわいい手。からだにそって垂れたまま、この手はもう御飯ごしらえをすることも、羊の毛を紡ぐこともない。いとしい人を抱くこともない。さようなら、もうみごもることも恋いを知ることもないわたしの腰、わたしのお腹。わたしが生むはずだった子供たちよ、一人息子に与えてやるひまのなかった兄弟たちよ、やがては墓となるこの牢屋の中で、おまえたちがわたしにつきあってくれるのね。ここでわたしは最後の審判の日まで、眠らずに立ち通すのです。 石の壁はすでに胸まで達しました。そのとき、若い女の全身を戦慄が走り、哀願するその眼は、垂れた両手のしぐさに代わるだけの表情をもっていました。
――お兄さまがた、わたしのためでなく、なくなった弟のために、わたしの子供のことを考えてやってくださいまし。あの児を飢え死にささないで。わたしの胸を埋めてしまわないで。ふたつの乳房が刺繍したブラウスのかげで役立てるようにしておいてくださいね。
毎日あの児を、夜明けと昼と夕方に、連れてきてください。わたしに命の雫が残っている限り、わたしの生んだ児を育てるためにその雫は乳首からしたたりおちるでしょう。そうしてもう乳が出なくなったら、あの児はわたしの魂を呑むでしょう。意地わるなお兄さまがた、このことさせ承知してくだされば、神さまの御許で出逢おう日に、夫もわたしもあなたがたを咎めはしますまい。
怖気づいた兄たちはこの最後の願いを叶えることを承知して、乳房の高さのところで二つの煉瓦の分だけ隙間を作りました。すると若い女はこう呟いたのです。
――お兄さまがた、煉瓦をわたしの口の前においてください、死人のくちづけは生きている人を怖がらせるものですものね。でも眼の前には隙間を残しておいてね、お乳が子供の役に立っているか見届けたいのです。
彼らは弟の嫁の言う通りに、眼の高さに水平の切れ目を入れるように細工しました。日の暮れ方、母親がいつも乳を与える時刻に、彼らは赤ん坊を塔まで連れていきました。すると囚われの女は赤児の到着を歓びの叫びで迎え、二人の兄に祝福の挨拶をのべたのです。堅くあたたかい乳房からどっと乳があふれました。そして自分の心臓と同じ血肉でできた幼な児が、胸によりかかって眠りこんだとき、彼女は厚い煉瓦の壁のせいで曇った声で唄いました。赤ん坊が胸からひきはなされると、彼女はテントに子供をねかせに連れて行くように命じたのですが、しかし夜通し、やさしい唄のしらべが星空のもとに流れて、遠くからきこえるこの子守唄のおかげで赤ん坊は泣かないでいられたのです。あくる日、彼女はもう歌わなかった。次の日、彼女は口をきかなかったが、まだ息はありました、檻の中で息づく度に乳房が上がったり下がったりしていたからです。二、三日すると声と同じく息も絶えましたが、しかし動かぬ乳房は少しも涸れることなく、やさしいゆたかさを保ち、胸のくぼみで眠る児はなおも母の心臓のひびきを聴いていたのでした。やがてけだるいその眼は、水のない井戸に映る星のように光を失い、壁の隙間から見えるのはもはや空をみつめない二つのガラスのような瞳だけでした。こんどはその瞳が溶け出て、うつろな眼窩の奥に死相がみられるようになりましたが、若々しい胸だけはそのまま、二年間も、朝と昼と夕べに、奇跡の乳をほとばしらせ、とうとう子供が自分で乳ばなれして乳房を恋しがらなくなるまで、それがつづいたのです。
そのときはじめて涸れきった胸はぼろぼろに崩れ砕けて、煉瓦のへりにはもはや一握りの白い灰しか残りませんでした。
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