分離について考える
1999年8月3日(月)
ふるさとセンター田総(総領町)
講師:岡崎 乾二郎(美術家)
中谷 礼仁(中間建築史家)
■□ 合同演習:岡崎・中谷対談「分離について考える」
. *  はじめに
*  分離 - 建築と美術というジャンルを超えて
*  分離と生産体制との関係
* 「美術」と「建築」の現在
  *  分離の作法
*  批評ということと生産秩序
*  芸術と機能
*  最後に

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*  分離の作法
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岡崎 こうやって芸術を考えると観念的になってしまう。それは言い方をかえて補助線をひくと、ほとんどわれわれがものをつくるときにルーティン化していて、装飾とか手の癖とか、自分がどんな音楽に影響されたとか、生活様式に影響されていて、ほとんどの場合が自分の作品が反復仕事になっているという自己幻滅を味わった芸術家がいて──そういう人はほとんど3年やるとそうなってもらわないと困るんだけれど──にも関わらず俺がすごいと思う芸術があるとしたら、それはどういうことなんだろう。ほとんど不可能な問いなのだけれど、その時の条件は何か。順序が逆転して現れてくるものは、どうやってそれをつくったのか、どうやってそれを発想したのか、と僕は思う。美大とかで演習課題をやると、いわばルールが先にあってその中で予定調和的に答えを出したと見えちゃうものが多いのだけれど、逆にどうやったらそれが現れるんだろうということを研究対象にできるような作品が時々現れる、現れないかもしれないけれども、僕は現れると思う。そういう問題設定をしたときに、芸術の単独性とか固有性とかはどうすれば可能になるのか。堀口捨己とか立原道造みたいにいろいろなことを考える。
岡崎 戦後に桑原武夫という人がいて、第二芸術論というのを書いた。それは俳句はたった3つの単語でできているから、全ての俳句はコンピューターに入れれば早々にして全部書ける。それは芸術としては全然二流で全く新しいものがない。俳句第二芸術論です。ところが、それと同じ批判は本居宣長の時代にすでにあって本居はこのように答えた。彼は(歌われたことが)同じか同じでないかということは形式上の問題で、それが歌われたということ自体が重要なんだといったわけ。形としては意味はない、全部クリシェでできている。どの歌を歌ってもいいのに、こっちの言葉を使ってもいいのに、にもかかわらず、そのとき、こっちの言葉を使ったということとか、極端に言うと茶道のようになってくる。中谷君がコーヒーを飲んでもよかったのにコーヒーじ ゃなくてお茶を飲んでいることそれに意味があるというように、コーヒーやウーロン茶は固有のものではないし芸術ではないけれども、それを中谷くんが飲んでいることは一回性の出来事であるという理屈を言っている。これは一期一会、チャンス・オペレーションだね。
学生1  構造主義批判のようなものですか?
岡崎 流行りの言葉で言うとそうかもしれないけれども、それは別に翻訳しなくてもいい。翻訳すると間違える。その例でいくと、パロールとラングの区別のようにもみえるし、パフォーマティヴとコンスタティヴの違い、また現象と実体との区別とか、にもみえる。いずれにしても、行為、その場で発話するということに意味を見出して内容とか言葉の問題ではない。でも、コンセプチュアル・アート、抽象芸術とかは俳句に近い。けれどもそれを言い出すときりがないから、ここで問題にするのは、そこで反論して主張していることは、歌は順列組み合わせでいくらでもできるといっているがそんなことはなくて、すべての歌というものは特権的に発話している人がいるということで、それがドグマになってしまうことです。そうするとその人のやったことはカリスマみたいに全て意味を持ってしまう。主観的なレベルで誰しもそうだけれども、それを交換するという時にすべての行為を先取りして代表している人がどこかで想定されてしまう。模範になるモデルがある。日本建築でも作法とかマナーとかになってしまうのは使い方とか、最初の使い方を考えた人が芸術家である。しかしこれはゲームでいっているので、皆さんには繰り返しいいますが(笑)、にもかかわらずどうすれば分離できるのか、分離の作法が課題です。
中谷 僕もそろそろ眠れなそうになってきた(笑)。
岡崎 何か質問ないですか?中谷さんの髪の毛がこういうふうにあがっているのが、芸術になってしまう。建築はそういうことはないけれども、美術やっている人には常識だね、こういう発想は。美術の学生はそういうことしか最近は考えていない。足かいているところを連続写真でとれば芸術になるかなとか、だいたい絵を描いていると何やったってクリシェにしか見えなくて、うまいとか綺麗とかかっこいいというところまでいくけれども、それでみんなにいじめられる。器用だよね、センスがいいよね、なんかいわれて。段々苦しんでいって、ドラッグ中毒になったり、宗教に走ったり、人格を変えようということになる。社会のルールから離れていくと、何をみても素晴らしくみえてくる状態。これを7年やっているのがいいんだ、とか、このままがいいといってじっとみてたり、そうやってチェンバレンが作品つくったりするんだけれども、そういうの見ていると建築の人はどう思いますか?

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*  批評ということと生産秩序
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学生2  本居宣長の話では、全ての歌を認めるのではなくて、特権的な歌い手がいてそれがドグマ化するということですが、多分今の僕らというのは、別に歌われているという事実が重要で、本が流通していたらそれは知っていたらいいとか、誰かが代わりをしてくれるというように思っている。誰かが特権的に発話するけれども、それは自分たちの関心に入っているというように思っている。
岡崎 関心?そういうのってまだそうですか?記号論が流行っているときはそういう理解が多かった。世界がまだ見通しがきいて、世界全体が読みとれるという話がある。時間的にいつのまにか前提を想定してしまうことがある、また、まだ見ていないものでも、記録されていて最終的にそれは発見させて、つまり自分が知らないものも自分の中に組み込まれているという、80年代頃の意識を持っている人たちはそう言っていた。謎はないという世界、だけれど僕の感じでいうと今はそうじゃない、極端にいえば知らなくていい。
中谷 何でこうなってしまったのだろう?
岡崎 僕はますます本居宣長的な気分になる。
学生1 その辺は東さんが、オタク文化があってすみわけの構造を持っていると言っていますが‥‥。
岡崎 しかし、ちょっとちがうように思うところがあって、こういう話をすると段々つまらなくなるのですがわれわれの方がよっぽどオタクであって、灰塚はなんだかんだいって20人しか人が来ていない。僕のまったく知らない、聞いたことも見たもないGLAY だとかいうバンドは20万人集 めたとかね(笑)。この間テレビみたら、ドリームキャストの「シーマン」というゲームがあって、これはすごいと思っちゃったのだけれどさ、そのはけている量はものすごい。また完成度も高い。「仕事何しているの?」「小学生だよ。」「小学生になんか育てられたくないね。」とか、仕事がタクシーの運転手だと「いつもいい景色見て走ってるんだろ、いいね。」とかしゃべったり、会話ができる。ものすごい情報量を扱っている。個々の単語がシンタックスで変えられるようになっているんでしょう。アニメにしても、カラオケの技術の進化もすごいと思って、ラップだとか、それから字余り系の歌をみんなだんだん歌えるようになってきている。昔の日本人だとあれは歌えないよ(笑)。これをオタクだといって『10+1』がオタクあるいはサブでないとは言えないな。明らかにひっくり返っていて、市場に流通性があるマッスカルチャー、メジャーなのは前者のほうでしょ。最近の小説よりも精度が高い。昔は80年代には小説がなくなってゲームの時代といわれていたけれどもそんなことはなかった。けれども、今はやっぱりこれはすごい。それ(会話)が嘘だと分かっていても生命を持っているかのように見える。
僕がいいたいのは、生産のレベルでは批判は起こっている、これはだめだとかあれはだめだとか、リストラだとかで、編集者のレベルでもこの字が大きいとかどうだとかで、ちょっとしたミスで首になっている。生産秩序としては批判なわけです。そういうものになってきた時に文学とかは生産秩序に介入不可能なわけです。唯一可能なのは、立原道造的な立場です。黙って事態に処すというしかないわけです。
ものづくりに関して言えば、具体的に生産的に批判するのであれば、それの持っている技術から入っていかなければならないし、文章にしても同じです。単にそれが根拠にしているところのヘゲモニーや理念を批判して、それを批判するときに、すでにどっかで批判されてだめだといわれているものを探してきていっちゃう。その批判というのが、AよりBがいいということになって、作者だとかテクスト全体を、ドグマ性を批判することになって、文章の構成だとか技術、具体的にそこに書いてあることの批判にいかない。僕はものをつくるということは、それ自体で批判性を持っていると思っている。だいたいよい翻訳者は、デリダの本はなぜだめかという批判を持っている。それはある意味では技術革新であり、テクストをつくるときにもっとよくしていこうという批判が働いている。それが唯一テクストというものを技術的にみることができるということです。AのテクストがBのテクストを全く無視してあるように見えているとき、AとBとを、わざと出会わせて、新しい遺伝子操作だとかをやるわけでしょう。 ものをつくるときにでも、テクストをつくるときでも、それが批判なわけでしょう。なぜ可能かとか、一体どういう立場だとかその場合言ってはいけないことです。徹底的に身を任せて出来たときに聞く。飽きたとか言っている暇はなくてそれに対してもう一回あらためて批判していく。どうも主体性とか作者性とか、書き手の位置が前提になっているような議論だと思います。それはドグマになってしまう。ヘゲモニー争いになってしまう。やっぱりそれは狭いものです。ドリームキャストのほうがやっぱりいいな。こちらのほうがいいとは言わないけれども自然なわけでそれをオタクと呼ぶのはどうもおかしい。

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*  芸術と機能
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岡崎 そう考えると建築雑誌にのっている建築は、インテリがつくっているようなところがあるんじゃない?
中谷 技術史になっていない。
岡崎 技術的な批判になっていない。
中谷 吉田五十八らがやっていたことは、全く下部構造的な、普段は認知されない、異質なものを掛け合わせる技術であって、それによって彼の芸の領域が可視的に切り開かれていた。しかし実は下部構造自体は、全く可視的にワールドスタンダードになっている。そういったものが問題構成自体を空洞化させている、そういう気がしています。
岡崎 吉田五十八という人はそういうことをかなり考えていた人ですよね。磯崎新と対談した86歳ぐらいの時に、「俺は新しい雑誌は全部とっている、だからあんたの仕事も全部知っているよ」と言ったそうです。それで近代和風を考えたときに、「現時点」でのもっとも了解な答えを出す、といっている。結局そこに到達するスタイルをつくることができれば、それは普及するだろう、これしか問題を解決する方法はないだろう。もちろん、その問題をつくって、実際に技術者的にその問題を解いている。吉田五十八は、堀口捨己、また西洋の建築家とでは、大きく違うところがある。どっちがいいかいわないけれども。
数寄屋とか、住宅の雑誌に戦前から載っているけれども、しかし住居はない。別荘か愛人宅とかであって、住居ではない。今の雑誌に載っているものもそうだけれども、なかなかそこに人は住まない。大体みんな余剰のものとして考えていて、それはファッションに近く、一生そこに住もうと思っていない。
学生1  海外の住居はあまりつくらない。別荘とかお金持ちがお金出してつくったもので、住めないとか‥‥。
岡崎 それは吉田五十八なんかがつくったものは、政治家の家か芸術家の家なんだよね。はじめからターゲットをそういう人を相手にして商売している。それはいいとは言わないけれども、すごいと思う。はじめから階級的なイメージをぴしっと持っていて、中途半端な民主主義的なことを言っている人よりかはいい。芸術モデルとして設定しているところがある。芸術として設定された住居は建築じゃない。家としての機能が免罪されている。
中谷 住まいというのがあって、それは芸術ではないということ?
岡崎 ふつうの住まいが芸術であるかどうかという面白い話はおいておいて、もうちょっと言うと、吉田五十八は住宅などのあと、堀口捨己もそうだけれど、旅館で普及するでしょ、そして旅館の海外の文化施設とかでしょ。それは、同じビルディングタイプでいくわけで、旅館も住宅も接客用のスペースにしかならない。
中谷 寝殿造り。

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*  最後に
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岡崎  説明ばかりしているとつまらない。明日は場所を見に行って、今日いったみたいに気分が分離するような、網膜が剥離したようなかんじになる、脳のデスクトップがフリーズしてめくれちゃったみたいな、作品をつくってそれを分離派と名付けよう。直感的でわかりやすいでしょ。実技でできる人は考えなくてよい、実技がうまくできず悩んで考える人は言葉で慰める、ウソウソ(笑)。みんな質問ないですか。みんなビールのませて憂さ晴らしさせたら。俺は芸術家は嫌いだという人はいないの?中谷さんになんで建築史をやってんだよとか。流派としての建築史と言っているけれども、建築史の中には流派があるの?
岡崎 実技でできる人は考えなくてよい、実技で悩んで考える人は言葉で慰める、ウソウソ(笑)。みんな質問ないですか。みんなビールのませて憂さ晴らしさせたら。俺は芸術家は嫌いだという人はいないの?(中谷さんに)なんで建築史をやってんだよとか。流派としての建築史と言っているけれども、建築史の中には流派があるの?
中谷 いっぱいあるんです。日本では建築認識のひとつとして建築史があって、その中にもたくさん分派があるんです。
岡崎 みんな質問ないの?なんで中谷さんあんなこと言うんだろう、とか。あんなこと言うと随分悩んでいる人だと思わない?アカデミックにわたしが調査して分析したところ‥‥と言っていたらいいのにさ、流派としての建築史で、なんて言って。でもそれぐらい言わなければならないほど方法論的に建築史は基盤が揺らいでいるんだよ。何でですかとかつっこまなければ、美術と同じですね、と。


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