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分離と生産体制との関係 |
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中谷 |
なぜ過去からの分離と芸術の主体的表現ということが──堀口の場合接続されているわけですが──、それはなぜなのですか? |
岡崎 |
それは分かっていて聞いているんでしょ?
分離派で取り上げたいのは、芸術作品というものは帰属する場がないという意識を明確にしたことです。つまり、過去だとか伝統だとかに帰属しないということであれば、簡単にいうと「超人」が必要なわけです。それを個人的な主体という意識であれば、分離派は成立しない。そうすると共同体をでっちあげるのでもよいし、もしくはカリスマ性をもって作品をつくることによって共同体ができるとか、ある程度括弧がついていないとできない。堀口捨己が考えていた芸術の設定というのも、技術体系や伝統からは切断されたところにしか出てこないというものである。だけれどもそれを、堀口捨己がつくったのでは芸術にならない。堀口捨己はそこのことを言うのを非常に苦労していた。もとの分離派はそこまで考えていたかどうかはわからない。しかし、最終的に分離派は、何でもありというようなものになり、キッチュのまがいものみたいになった。のちのモダニズムの展開からするとそうなった。そこで、そういうふうになったベースには、伝統によって芸術は規定されないという意識があったことだと思う。思うというか、僕はほんとはかなりこれはデタラメだと思うのだけれども、過去からの切断でなおかつ芸術がつくられるとしたら、事後的に芸術になるか、将来を先取りした形でつくらざるを得なくなる。現在に基盤を置いているのではなく、現在を過去から切断して<現在>たらしめることによって成立しているのだから、そこでいう分離派が前提としている<現在>というのは、まだない現在でないとつじつまが合わないでしょ?芸術というものが、個人が決定するわけでもなく、共同体が決定するわけでもなく、しかも誰もが合意する、時代がついてくるとか、時代に支持されるという考えです。これはアーツ&クラフト運動にもあったのだと思うのですが、それはよく言われるように中世のギルド的なものを復活させようと思っていた。それは大きくひっくり返っていて、生産させるための社会秩序が前もってあるわけではなくて、可能性なりをある程度予測してものを組み立てることが作業として含まれていた。そういう転倒があった。 |
中谷 |
投企的に? |
岡崎 |
そうそう、それで宗教団体と同じようになりかねないところもある。それをよりリアルな現在の生産秩序、プロセスに合わせて、ものをつくろうとうすると──バウハウスはハンネス・マイヤーとかがやった──、途端に分離という方法論、芸術という概念がすっとんじゃう。 |
中谷 |
コルビュジエは、すでに実現している船とか飛行機に築かれつつあった合理的な生産システム、下部構造を自分の建築に置き換えただけだといって、自分の作品を弁護しますよね。そういったものとは何か違うものが分離派にはあったのでしょうか? |
岡崎 |
コルビュジエのは模倣しているだけで、嘘が入ってきます。テクトニックの勉強をしている阪根さんとそういう話をしていたのですが、自動車だとか椅子というものと、それに憧れてつくるものとは明らかに違いがある。単純に言えば、機械というのは大量生産可能なように組み立てられており、また生産過程の精度が高いから成立している。コルビジェがつくる建築は手作りで、またI・M・ペイという建築家がハイテクを使うが、最終的に大事な部分は手作りだというけれども、彼は基本的に建築はなんらかの生産体制を模写しているということを明確に表している。コルビュジエがいっているのは、昔の芸術家と変わらない。アメリカ美術は除外しますが、ポロックまでの近代の芸術家とルネサンスあたりの芸術家と較べると、前者は手工業、つまり、ひとりでつくるというところまで、生産体制の観点からすれば落ちているわけです。最近のアメリカはハリウッドみたいに芸術産業化してきてるけれど。ルネサンスの頃のほうが、はるかに生産システムの精度ヘ高いし、複数人による連携もあって、かなりシステムも複雑だった。近代になって、芸術は途端に未開になった。それで、これじゃいけないといって、外形だけを機械の形の真似をして大量生産が可能になるよう規格化した。しかし、面白いのは徹底的に機械化するということに、コルビュジエやグロピウスは踏み切れなかった。それをやるのは、ハンネス・マイヤーとか日本の建築家でいえば、佐野利器である。 |
中谷 |
そういう点では、コルビュジエもフィーチャリスティックである。分離派とかわらない? |
岡崎 |
そうですね、大きくいえば。コルビュジエの影響を受けた人がそれを生産過程にのせようとするし、またアーティストとアーティストとの間での影響関係もあるわけですが、それは中谷君の用語で言えば、上部関係内での伝播です。その影響を受けた人の何人か目の人が、ゼネコンやなんかと結びついたときに、うまく作動するのかもしれないけれども、そうなるまでにはかなり時間がかかった。そんなコルビュジエに較べれば、シカゴ派のラーメン構造、シカゴフレームは、はるかに完成度が高く、装飾はカーテンウォールのように自由に入れ替えできた。そうすると、コルビジェとそれとどちらが機械的かというと後者である。 |
中谷 |
1800年代後半からですね。 |
岡崎 |
そうすると、今までの話から芸術がなくなってしまうという問題設定がある。建築であるとか美術であるとかというジャンルにわかれないで、みえてくるものがある。どんなものでも言えるのですが。 |
中谷 |
工業化・規格化も進んでくると、大ざっぱに言うと建築の場合は、全体的な形態を規定する統制概念を捨象してしまう。工業化・規格化は別のロジックになってくると思うのです。工業化・機械化というのは、ある種の形態を積極的には規定しませんよね? |
岡崎 |
僕はそうは思わない。形態の定義にもよるけれども。工業製品というのは、大量生産で反復できる要素が確定されるから、非常に安定した形態になるわけです。そのアンサンブルとしての建築は形態がないということは、それは生産物として非常に精度が低い。建築は大量生産物として型を持たないとすれば、フォードは型を持っているからそのほうがはるかに精度が高い。建築は様式というけれども、それは作法みたいなものであり、型にはならず、好みとかという問題であって工業製品にはならない。もし、プレファブということになればそれはかなり型が決まっているし、民家や数寄屋造りとか、バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」は、はんこでおしたように形が簡単にできていて、フォルムに統一性がとれている。 |
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ここで話を明日からのテーマに戻すと、テーマは「分離の手法」です。何のことかわからないけれども「お里がしれない」ということです(笑)。どこにも接続しないでそれが成立する、ということです。帰属関係なしで、この社会ではこれがいいとか、この文脈の中ではこれがいいとか、文脈内判断を一切切断して成り立つ判断をしようという美学が分離派の中にはあったと思う。しかし、実際にはそうはうまくいかないから趣味の共同体というものをつくっちゃったかもしれないけれども、分離派が面白いのは切断可能性ということです。 |
中谷 |
それが堀口に行く可能性がある。 |
岡崎 |
カリスマではないけれども、出自不明で誰がつくったかわからない、しかし素晴らしい、これは真似するしかないな、という話が成立したらいいわけです。普通だったら反復される型というのは、オートポイエティックに自然成長的に型がつくられるわけですが、分離派の場合、ロマン派的な美学が流れているのだと思うのだけれども、そういう生産秩序ではなく、いきなりものがポンとつくられ、それが社会の中で反復されるということがあると思う。前もってルールやコードがあるわけでなく、ポンとでてきたもの、それがコードになる。簡単にいえば、ここに空飛ぶ円盤がおりてきて、そこにいきなりツチノコとかヒバゴンが出てきて、それらは誰がつくったものではないけれども、圧倒的にみんな同意して面白いということになると、ツチノコ饅頭をつくったりと、ツチノコ産業ができてくるわけです。そのツチノコを発明するような話です。最初に社会があるのではなく、カリスマが降臨してきて、それを人々が反復するという議論が芸術の中にはある。こういう話をするとみんな眠たくなる。でもいろいろあるんだよ(笑)。 |