分離について考える
1999年8月3日(月)
ふるさとセンター田総(総領町)
講師:岡崎 乾二郎(美術家)
中谷 礼仁(中間建築史家)
■□ 合同演習:岡崎・中谷対談「分離について考える」
. *  はじめに
*  分離 - 建築と美術というジャンルを超えて
*  分離と生産体制との関係
* 「美術」と「建築」の現在
  *  分離の作法
*  批評ということと生産秩序
*  芸術と機能
*  最後に

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*  はじめに
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岡崎  これから今回の演習の企画を皆さん方に問います。演習は簡単に『企画展をする』です。展覧会は建築と美術のものというように、 二つ設定して好きな方を選んでもらう。 そのコンセプトをなるべく平行関係にあるも のにして、ある程度どういうものにするか議論した上で制作にとりかかりたいと思います。例えば、「インターナショナル○○展」とか、かつてあったような名前の展覧会にして、それは歴史的にみて一体どういう展覧会だったのか皆で議論し勉強した上で、どういう作家を呼ぼうか、ということも考える。先行例として対象となるものをいくつか挙げてみて学んでいくようにしたい。というわけでどういう展覧会にするか、議論を始めましょう。
中谷 「建築家なしの建築」展がいいのかどうかとか。
岡崎 そうそう。つまり、そういう展覧会のコンセプトをみんなで勉強して、その中にある問題点やつじつまが合わない点などを検証する。アースワークでもいいし、パブリック・アートでもよい。

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*  分離 - 建築と美術というジャンルを超えて
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岡崎  例えばMoMA で、インターナショナル・スタイル展をやった頃にそれと平行して、1936 年にアルフレッド・バーという人が『キュビズムと抽象芸術』を集めた展覧会をしています。それはインターナショナル・スタイル展が今までのモダニズムをチャート的にまとめたように、おなじように抽象表現をまとめています。このように、あるコンセプトを選べば、建築でも美術でも、ある程度対応した展覧会ができると思います。
中谷 同時代的にありましたからね。
岡崎 リージョナリズムパブリック・アートといった設定をし、はじめから建築と美術と分けないで同じテーマでやってもいいですね。
中谷 それいいですね、展覧会の時に建築と美術を混ぜて展示し、それで見分けがつくかどうか、とか。
岡崎 いいけどさ、建築で展覧会をやろうとすると、資料展示になることが多い。そこの問題があるでしょ。例えば写真を撮ってきてそれを展示する、あるいは模型をつくってそれを展示する、というように建築物をそれ自体で見せるということは難しい。それだったら昔のヴェネツィア・ビエンナーレのように、展覧会の中で建築家がインスタレーションをやっているように条件を変えてやらないと、はじめから建築の概念を少しずらしてやらないと建築展として成立しない。それでもいいという考え方もあるけれども。
中谷 建築展と美術展との境目ということで言えば、建築展だとそれを一回写真で撮ってみるということですか?
岡崎 そうではなくて。展覧会という器が建築という器より小さいと建築家が考えてしまいがちだという問題かな。あっ、わかった。セセッションの展覧会で行きましょう。そうすると建築も美術も同じだからね。
中谷 セセッションと日本の分離派との同質性と差異というテーマもでてきそうですね。
岡崎 みんなセセッションぐらい知っているよね、では中谷さんから説明してもらいましょう。僕がここでセセッションといったのは、建築としての芸術、つまり建築は芸術足り得るか、ということがもとになっています。セセッションを翻訳した分離派というのは、そういう問題だったのです。ただ美術のほうからいうと、セセッションはクリムトだとかの画家も参加していましたが、非常に簡単にいうと、後に建築も美術も含めてジャンルの確定なく合体したものは、両方とも装飾的であると思われている。表現主義の流れにあるけれども、セセッションと括ったときには、非常に装飾的なものと捉えられている。
中谷 日本の近代の建築における分離派の場合は、セセッションをもとに構想しながら、日本の状況下においてやや特殊ななまりがある。当時は芸術は不要で、いかに安く、早く、堅牢な建物を造りうるかという男性原理の科学合理至上主義、いわゆる構造派が主流になりつつあった。分離派のイデオローグで東大出身の若い建築家だった堀口捨己は、その枠組みに対して分離しようと明確に述べています。しかしながら、その分離は、ノイエ・ザハリヒカイトのような還元主義には必ずしもいかないで、構造派反対なら、どんな表現でも許容するというように、いわば何でもありの世界になってしまった。いまから批判するのは簡単なことですけどね。そうすると両者はかなり違う方向性を持っているように思う。建築分野と美術分野と仮に分けるとして、ヨーロッパにおける当時の同時代的な表現活動の中でも、さまざまな流派、方向性があるように思います。いくつあると思いますか?
岡崎 数えるの?それは大雑把にしかいえないけれども、例えばポップ・アート──イギリスのリチャード・ハミルトンが創出したことになっていますが──そのリチャード・ハミルトンというのは、単に芸術をつくる視野よりも広い視野を持っています。一方に彼がいて、もう一方にシチュエーショニスト・インターナショナルのようなグループがあったわけだけれども、リチャード・ハミルトンとブルータリズムの人たちはかなり交流もあったし、非常に近いところがあった。さらに言えば、その後のアーキグラムもかなり近い発想です。そうすると、建築であるとか、美術であるとかというようなジャンルごとの自律性よりも、それを包括するような大きなシステムなり、生産体制なりを設定した時、民芸運動もそうかもしれないけれども、そういうことが成り立つ。失敗すると単に装飾的なものになってしまう。ただ、そこまでの話ではなくて、分離派の話に戻っていえば、「なぜ分離派と呼びますか?」というように言葉の意味から始めてみんなで議論するといいかな、と思った。
中谷 芸術における主体性がいつ生まれたかみたいな問題?
岡崎 いえ、もっと素朴に、過去からの分離。

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*  分離と生産体制との関係
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中谷  なぜ過去からの分離と芸術の主体的表現ということが──堀口の場合接続されているわけですが──、それはなぜなのですか?
岡崎 それは分かっていて聞いているんでしょ?
分離派で取り上げたいのは、芸術作品というものは帰属する場がないという意識を明確にしたことです。つまり、過去だとか伝統だとかに帰属しないということであれば、簡単にいうと「超人」が必要なわけです。それを個人的な主体という意識であれば、分離派は成立しない。そうすると共同体をでっちあげるのでもよいし、もしくはカリスマ性をもって作品をつくることによって共同体ができるとか、ある程度括弧がついていないとできない。堀口捨己が考えていた芸術の設定というのも、技術体系や伝統からは切断されたところにしか出てこないというものである。だけれどもそれを、堀口捨己がつくったのでは芸術にならない。堀口捨己はそこのことを言うのを非常に苦労していた。もとの分離派はそこまで考えていたかどうかはわからない。しかし、最終的に分離派は、何でもありというようなものになり、キッチュのまがいものみたいになった。のちのモダニズムの展開からするとそうなった。そこで、そういうふうになったベースには、伝統によって芸術は規定されないという意識があったことだと思う。思うというか、僕はほんとはかなりこれはデタラメだと思うのだけれども、過去からの切断でなおかつ芸術がつくられるとしたら、事後的に芸術になるか、将来を先取りした形でつくらざるを得なくなる。現在に基盤を置いているのではなく、現在を過去から切断して<現在>たらしめることによって成立しているのだから、そこでいう分離派が前提としている<現在>というのは、まだない現在でないとつじつまが合わないでしょ?芸術というものが、個人が決定するわけでもなく、共同体が決定するわけでもなく、しかも誰もが合意する、時代がついてくるとか、時代に支持されるという考えです。これはアーツ&クラフト運動にもあったのだと思うのですが、それはよく言われるように中世のギルド的なものを復活させようと思っていた。それは大きくひっくり返っていて、生産させるための社会秩序が前もってあるわけではなくて、可能性なりをある程度予測してものを組み立てることが作業として含まれていた。そういう転倒があった。
中谷 投企的に?
岡崎 そうそう、それで宗教団体と同じようになりかねないところもある。それをよりリアルな現在の生産秩序、プロセスに合わせて、ものをつくろうとうすると──バウハウスハンネス・マイヤーとかがやった──、途端に分離という方法論、芸術という概念がすっとんじゃう。
中谷 コルビュジエは、すでに実現している船とか飛行機に築かれつつあった合理的な生産システム、下部構造を自分の建築に置き換えただけだといって、自分の作品を弁護しますよね。そういったものとは何か違うものが分離派にはあったのでしょうか?
岡崎 コルビュジエのは模倣しているだけで、嘘が入ってきます。テクトニックの勉強をしている阪根さんとそういう話をしていたのですが、自動車だとか椅子というものと、それに憧れてつくるものとは明らかに違いがある。単純に言えば、機械というのは大量生産可能なように組み立てられており、また生産過程の精度が高いから成立している。コルビジェがつくる建築は手作りで、またI・M・ペイという建築家がハイテクを使うが、最終的に大事な部分は手作りだというけれども、彼は基本的に建築はなんらかの生産体制を模写しているということを明確に表している。コルビュジエがいっているのは、昔の芸術家と変わらない。アメリカ美術は除外しますが、ポロックまでの近代の芸術家とルネサンスあたりの芸術家と較べると、前者は手工業、つまり、ひとりでつくるというところまで、生産体制の観点からすれば落ちているわけです。最近のアメリカはハリウッドみたいに芸術産業化してきてるけれど。ルネサンスの頃のほうが、はるかに生産システムの精度ヘ高いし、複数人による連携もあって、かなりシステムも複雑だった。近代になって、芸術は途端に未開になった。それで、これじゃいけないといって、外形だけを機械の形の真似をして大量生産が可能になるよう規格化した。しかし、面白いのは徹底的に機械化するということに、コルビュジエやグロピウスは踏み切れなかった。それをやるのは、ハンネス・マイヤーとか日本の建築家でいえば、佐野利器である。
中谷 そういう点では、コルビュジエもフィーチャリスティックである。分離派とかわらない?
岡崎 そうですね、大きくいえば。コルビュジエの影響を受けた人がそれを生産過程にのせようとするし、またアーティストとアーティストとの間での影響関係もあるわけですが、それは中谷君の用語で言えば、上部関係内での伝播です。その影響を受けた人の何人か目の人が、ゼネコンやなんかと結びついたときに、うまく作動するのかもしれないけれども、そうなるまでにはかなり時間がかかった。そんなコルビュジエに較べれば、シカゴ派のラーメン構造、シカゴフレームは、はるかに完成度が高く、装飾はカーテンウォールのように自由に入れ替えできた。そうすると、コルビジェとそれとどちらが機械的かというと後者である。
中谷 1800年代後半からですね。
岡崎 そうすると、今までの話から芸術がなくなってしまうという問題設定がある。建築であるとか美術であるとかというジャンルにわかれないで、みえてくるものがある。どんなものでも言えるのですが。
中谷 工業化・規格化も進んでくると、大ざっぱに言うと建築の場合は、全体的な形態を規定する統制概念を捨象してしまう。工業化・規格化は別のロジックになってくると思うのです。工業化・機械化というのは、ある種の形態を積極的には規定しませんよね?
岡崎 僕はそうは思わない。形態の定義にもよるけれども。工業製品というのは、大量生産で反復できる要素が確定されるから、非常に安定した形態になるわけです。そのアンサンブルとしての建築は形態がないということは、それは生産物として非常に精度が低い。建築は大量生産物として型を持たないとすれば、フォードは型を持っているからそのほうがはるかに精度が高い。建築は様式というけれども、それは作法みたいなものであり、型にはならず、好みとかという問題であって工業製品にはならない。もし、プレファブということになればそれはかなり型が決まっているし、民家や数寄屋造りとか、バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」は、はんこでおしたように形が簡単にできていて、フォルムに統一性がとれている。
ここで話を明日からのテーマに戻すと、テーマは「分離の手法」です。何のことかわからないけれども「お里がしれない」ということです(笑)。どこにも接続しないでそれが成立する、ということです。帰属関係なしで、この社会ではこれがいいとか、この文脈の中ではこれがいいとか、文脈内判断を一切切断して成り立つ判断をしようという美学が分離派の中にはあったと思う。しかし、実際にはそうはうまくいかないから趣味の共同体というものをつくっちゃったかもしれないけれども、分離派が面白いのは切断可能性ということです。
中谷 それが堀口に行く可能性がある。
岡崎 カリスマではないけれども、出自不明で誰がつくったかわからない、しかし素晴らしい、これは真似するしかないな、という話が成立したらいいわけです。普通だったら反復される型というのは、オートポイエティックに自然成長的に型がつくられるわけですが、分離派の場合、ロマン派的な美学が流れているのだと思うのだけれども、そういう生産秩序ではなく、いきなりものがポンとつくられ、それが社会の中で反復されるということがあると思う。前もってルールやコードがあるわけでなく、ポンとでてきたもの、それがコードになる。簡単にいえば、ここに空飛ぶ円盤がおりてきて、そこにいきなりツチノコとかヒバゴンが出てきて、それらは誰がつくったものではないけれども、圧倒的にみんな同意して面白いということになると、ツチノコ饅頭をつくったりと、ツチノコ産業ができてくるわけです。そのツチノコを発明するような話です。最初に社会があるのではなく、カリスマが降臨してきて、それを人々が反復するという議論が芸術の中にはある。こういう話をするとみんな眠たくなる。でもいろいろあるんだよ(笑)。

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*  「美術」と「建築」の現在
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岡崎  今、立原道造展がやっている。その立原が「建築は芸術か否か論争」ということを考えるわけです。日本浪漫的だけれども「芸術ははかない」ということを言っています。アメリカ美術なんかだと、芸術はどんなジャンルにも回収されない、例外性として現れる、もっと言うとグリンバーグ的な言い方ではどんな社会関係にも帰属しないで、批判的な領域として自律している、そういうことは可能か、という問いをたてるのですが、それと同じことを立原は考えている。建築は物質的な形式としてはとらえきれない、たまたまぱっと見て崩れてしまったとか、使ったときの感じがいいという個別的な経験になると、それは反復不可能だから。だけれどそれは絶対的な経験を与えると言います。人には言えない翻訳不可能、置換不可能な自分が感じたこの感動は、にも関わらず否定はできないというようなものがある。建築といっても建築の生産物と建築とは違うと言っているわけです。大和歌というものに対して、本居宣長が言っていたような理屈に非常に近くなる。それは中谷先生の専門の「国学」的な領域になってくるのですが(笑)、それだけではなくて、アンチ・イリュージョンとか、最近のフィッシュリ・アンド・ヴァイスとかの作家達がつくる作品は、紙コップがただ回転しているだけの「事の次第」とかのとりとめもなく、はかない映像をつくって人気がありますね。クリス ・バーデンがテイトギャラリーでやっていたのはゴム巻き飛行機を飛ばす機械というもので、1500 万円ぐらいかかっていて、ゴムをまいて飛ばすまでオートマティックにできていて──あいだにエンジニアとかがいて、またコンピュータとかあるのだけれど、たぶんあの機械は全部偽物だと思うけれど──、みんなカウントダウンをして、最後にぴゅーっと飛行機が飛んでみんなで拍手している(笑)。それと立原は同じだといったら可哀想だけれども、僕の目からすると同じなんだよね。つまり、結果をださないで宙づりにしているわけです。比喩的に言えば、ゴミがポンと出て地上に落下するとそれはオブジェになるけれど、飛んでいるうちはなんだかわからない。そういう、ナサケナイはかない落ちが出るまでの過程こそが重要でそれを、できうるかぎり引き延ばしている。その過程だけは、いかなる領域にも属さないで、モノがモノとも形ともならない状態で、ふわふわしている。「蚊が一匹います」というのが作品になったりするとか、展覧会場は中は空洞にして外に落書きみたいなポスターが貼ってあるとか、これはほとんどどこが作品かとはいいにくい。ある意味ではデュシャンがやってきたことを通俗化している。美術がショービジネス的になってきたときに作品が予定調和的になってきて、ホワイトキューブを与えられた時の形はこうだ、というふうになっている。象徴的な例ですが、群馬県立美術館を改築して磯崎新さんがホワイトキューブをつくったけれども、しかし、現代美術のほうではすでにそういう空間が嫌われはじめていて、最初にやったカスパー・ケーニッヒの展覧会ではみんなフィッシュリ・アンド・ヴァイス系で、待合室とかに展示する。それで税金の無駄遣いと言われて問題になっている。「これがスペースです」というふうに舞台を設定して見せるとなると、多くの人が作品という形で結果を出さないで、僕もそうかもしれないけれどもどっちつかずで、風に舞っているような状態にしたくなる。
中谷 芸術家は芸術家だと自ら公言しないがゆえに芸術家。
岡崎 そういう感じで、じゃ私はお客さんの肩を揉みますとか、そういう作品ばっかり。その芸風は結婚式でスピーチを頼まれたらずっと黙っていて最後に咳ばらいだけしてみんなの笑いを買うという、だいたいそういうものが多い。これは全くブツにしない、ブツにするとフレームに負けてしまう。なぜそんなのをつくるのかといえば、どんな場所にも回収されない位置づけされない、概念化されない、どこにも所属しない場所をつくろうとすると自動的にそういう作品になる。ヨーロッパとかは多いですね。まだ出世したいとか、そういう人たちはモニュメンタルなものをガバガバつくっているけれども、他の人、自意識過剰なアーティストはだいたいそうなってきている。そもそも僕が言いたいのは、立原道造にも通ずるし、グリンバーグが「アバンギャルドとキッチュ」でいったような、エフェクトを出さないこと、プロセスでとどめることでしか芸術は自分の領域を守れない、そういう話に近い。
中谷 例えば建築では、西沢立衛さんが「問題群をみつけるのが、今の問題である」といったのと同じような話?建築=メタ建築論。
岡崎 問題をみつけるのとは、ちょっとちがうと思うよ。問題が気づかない、問題なんてわからないという徹底したおとぼけ路線なんだもの。要するに会話が可能だと今や回収されるから、会話不能な天然ボケ状態で、西澤さんはともかくとして、妹島さんはどっちかというとそうだよ。今のヨーロッパのアーティストを連れてきてインタビューするとなんだかわからない。
中谷 グリンバーグと建築家は違うけれど。
岡崎 日本の建築では、西沢さんのようなことを言う、問題発見的なものとして建築を捉えている人は珍しくて、むしろ吉田五十八とかの流れで行くと、いきの構造とか、立原道造とか、堀口捨己で、定位しにくい形式を設定してやっちゃう。
中谷 話はずれるかもしれないけれども、今の若手の建築家で和風を意識的にやろうと思っている人は皆無に近い。彼らにとってみると、和風は一気に疎外される枠組みでしかない、と思われている。みんな過去のことを勉強するの嫌いだし。しかしながら、妹島さんがやっていること、つまりプログラムの明確化とその無理のない(ように見える)納まりの追及は、ほとんど和風──数寄屋の問題です。昔からの美学を知らず知らずに再現している。
岡崎 穿っていうと、堀口捨己や吉田五十八が能動的に発見した数寄屋というものは、昨今のアーチィストが狙っているオトボケ、はかない路線同様に芸術だったわけです。日本で建築を芸術にしようと思った時にそれは和風だったわけです。
中谷 和風という問題構成はそれしかなかった。
岡崎 それしかなかったというのは、形式に還元しきれないということです。それから工業生産にのるようなふりをしながら、それを超えるような特異性が創出しうる。また、形式においてというよりは、使い手の能動的な使用において建築が立ち現れる。使い手のプロセスによってでないと、現象学的な建築、作品の意味というのが出てこない。それが和風にあった。その全ては当時の人たちが、芸術が成立するための条件として言っていたことです。戦後は全てそれになっている、伊東豊雄に至るまで現象的な建築といって。
中谷 ただそれが今、忘却されて、全く新しいと思われて再現されている。


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