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弱い技術・強い技術 |
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中谷 |
稲垣先生と岡崎先生のお話を合わせまして、お聞きしたいことがあるのですがよろしいですか?僕が今度大阪の長屋──全23棟のもので明治の末期以降から継続してできてきたもの、今度9月に壊されるもの──を実測をするのですが、もちろん長屋は建設当初のまま残っているわけではないわけですね。ボロボロになって改修されていますが、でも、何らかのかたちでさわりは残っている。ところがよく考えてみると、現代のプレファブ住宅が改修可能性、修理可能性、変更可能性を持っているかというと、現時点では持っていません。商品化の流れの中の一つの記号として価値が決定されている。変更しようとするときには全面建て替えです。
逆に弱い技術ということを考えられないだろうか。まず科学技術に代表される強い技術、すべての部分の意味価値が決定されている科学共同体、いわゆるテクノロジーがあります。一方で大工さんが持っているようなもの、あるいはハイヅカにいるわれわれが持っているもの、それは他との技術の関係性の様態を様々な状況に応じて柔軟に選択していって決める技術です。そうしないと生き残れない。そういう意味でそれは強い技術とは対極の技術です。柔らかい技術という言葉もありますが、これは強い技術の亜品種に過ぎません。そう考えると私は伝統の継承性、民家の継承性といったものは、恐らく古い新しいの問題ではなくて、その技術自体が全体的な訂正可能性を持ち、要は未来の予測不可能性に対して自分の技術がオブジェクト化しても、かつそれが一定の資材性を持ち得るような弱い技術である、ということがキーだと思います。そういうところをみまして、僕ははじめて文化的に民家は素晴らしいと判断を加えたい。 |
稲垣 |
中谷さんの言う改修可能性、修理可能性、変更可能性というのは、日本の技術が自然との関わりのなかで徐々に作られていったことの結果なんでしょうね。日本に限らず伝統的な技術というのは、そういうものなんだと思う。技術の歴史のなかではやはり近代が異質なので、一つの目的に対応した機能だけが追求されるけど、技術の総合性や生活との関連や永続性といったことは考慮されない、その意味で柔軟性を欠いた、中谷さんの言う強い技術になったということでしょう。 |
田中 |
応用可能なのは弱い技術。 |
中谷 |
応用可能なのは弱い技術という、僕は最近何となくそういう気がしています。 |
岡崎 |
中谷さんの言われているのは、いわゆる強い技術というのはそれを水平軸で見たときの社会情勢の生産体制に合致したもので、だけれど、その強い生産体制の方がすぐ変わってしまう。強いのは現在の適用性の問題でしかなくて、つまり変わるともう互換性がなくなって使えなくなる。けれどそれから外れているような技術のほうがフレキシビリティがあって、結局はその技術を保持しているほうがサバイバルできる。この応用可能性や適合力というのは先ほど田中先生のいわれた知恵ということなんじゃないですか。 |
田中 |
あのね、先生、僕は小僧になったのは14才ですが、20才ぐらいになるとあそこに行って仕事やってこいと親方に言われるようになる。そこでその仕事を「どうやってやるんだ」と聴くと「バカヤロ」と怒られる。仕方なく自分で何をどうやろうかとその前の夜から道具準備したりしますよね、それが25才くらいになってくると、どんと来い、やってやるぜってふうになる。修業中の10年間は仕事を頼まれると怖かったよ。それがね、次からは対象客層が違うからね、いつも同じ技能ではだめなんだ。10年たつと客層は変わるから、仕事も自ずから変わっていっちゃうんだ。小僧のときは今のように民家の屋根に銅板が蕁かれるようになるとは考えられなかった。 |
岡崎 |
あの愚問かもしれないんですけれどもね、田中先生がいわれる知識と知恵の違いですが、知識というのは、ただ同じことが反復されるというような固定化された情報、事典とか辞書とかに乗ってるものですね。ようするにこのように意味が固定化され反復できるのはシステムあるいはルールに依存しているからであって、それに対して知恵というものはそのルールを自分で考え出すような能力で、まあ自分でやり方を考え出すこと。これは教えられない。教えるというのはルールや目的が定められた上でないとできないから伝授不可能ですね 。だから怒られっぱなしでよくわからない内のほうが花で、しかしある時ポンと放りだされたとたん、ぜんぶ 自分で判断しなければならなくなる。ぱっと放りだされきづくと一番前に自分がいる。 |
田中 |
そりゃ責任の担保だよ。責任をとるかとらないかだよ。 |
岡崎 |
そうですね。判断基準を誰でもなく自分で決めていかなくてはいけないと。知識じゃなくそれが知恵になっているかどうかということは、今まで誰かに言われた通りにやっていくのではなくて、そのつどのケースによって、自分で目的も方法も組み立て直していけるフレキシビリティが問われる。今、その応用力がなくなっちゃってきているから、建物の使い方とか改良の仕方とかの 技術が全くなくなっていますね。今の学生は、知恵の伝授に、つまりある日 突然全部おまえ決めろとなったとき、誰も頼りにできないといなるとそれをみんな逃げちゃう。全然参照源もない、はっきりした規範もシステムもないところで、どうやってそれを立ち上げていくか。こうした場面を逃げていては何もできないですね。 |