1960 |
鹿児島県生まれ。高校で日本画を描き始める。でも本当は歌を歌うのが得意だった。 |
1979 |
京都市立芸術大学工芸科入学染織専攻 江戸小紋等に興味を持つが、演劇活動にはまる。 |
1983 |
同大学大学院入学 京都三条鴨川に鯉のぼり作品を展示し京都府土木局に怒られる。
パフォーマンスユニット「京都情報社」設立 関西の街角を中心にパフォーマンス活動。
表現活動としてのお茶会「軽茶倶楽部」を主宰。様々な空間でお茶を点てる。 |
1985 |
等身大のハニワを京都市立芸術大学の池にラブソングを歌いながら沈めて大学院修了。
この頃やたらと空間を使った作品を発表する。代表作:「ゴジラとはにわの結婚問題」
「ガマ君とカエル君の紙芝居」「松の木の憂鬱」「喜怒哀楽のシャチの頭像」「カメはにわ」等 |
1986 |
自分の美術活動に疑問を抱きパプアニューギニアへ青年海外協力隊員として日本を脱出。
パプアニューギニア国立芸術大学講師として働きながらプリミティブの神髄と格闘する。
この頃「野豚を追うヤセ犬」と運命の出会い。自分の美意識に対する確信をつかむ。 |
1987 |
「地域、適正技術、協力」のキーワードを意識しはじめ、帰国後の方向性を決心する。 |
1988 |
素材研究のため東京の土地開発業者(地上げ屋)に就職。取り壊す前の家を転々とする。 |
1989 |
バブル崩壊の為、都市計画コンサルタントに転職。かなりストレスを貯蓄する。
鹿児島の実家を改造して空間としての作品「Eスペイス」を制作。カフェとして運営を始める。
勤務していた会社に対するメッセージ「世界食糧銀行構想」を美術表現として試みる。 |
1991 |
国際協力の問題で会社との方向性のズレでストレスが満杯となり退職。
退職金で給料1ヶ月分のお米を購入、元勤務していた会社に対する意見を作品化。
「お米の砂漠」「犬のおしっこ」「テラピア缶詰のピラミッド」「48本のメタセコイヤ」等。 |
1992 |
虫が湧きつつある1トンのお米の処分に困り果て、2048匹のおにぎりのカエルを制作。
人口増加の問題を素材とした「2025蛙の池シンポジウム」(2nd.JASグランプリ受賞)を発表。
様々な専門家にインタビューする中で、廃棄物の増加の問題を意識し始める。 |
1993 |
地域の問題をリサーチする目的で鹿児島に移住。いきなり水害に遭遇し治水に興味を持つ。
藤浩志企画制作室設立。治水問題についての市民運動と自分の表現活動の狭間で悩む。
「ドラゴン屋台」「ふりカエルBAR」等の期間限定のカフェをアートワークとして始める。 |
1994 |
2048匹の腐りかけたお米のカエルとともに「カエルのキャンペーン」を各地で展開。
福岡で開催された第4回アジア美術展に出品参加。アジアの作家と福岡に興味を持ち始める。 |
1995 |
お米のカエルを樹脂の塊の墓石とし終止符を打ち、「お米のカエル物語」を出版。
このころ地域研究の目的で入団した鹿児島混声合唱団がかなりレベルアップ。かなりはまる。 |
1996 |
取り壊された家の柱で1987年より彫り続けていたやせ犬が目標の101匹となり完成。
福岡の天神地区で101匹のヤセ犬を400個のカップ麺のプラスチックカップ等と共に展示。
取り壊された石橋についての地味な絵本「たけのはし」を出版。(地方出版文化賞受賞) |
1997 |
福岡の海辺の農家に家族で移住。妻と子供の協力を得て「家庭内ゴミゼロミッション」開始。
福岡の山際の養鶏場跡に作業場を確保しStudio Farmを設立するが、モノを作る興味を失う。
表現活動は地域に苗を植える活動に近いのではないかと想定し、Plant Demonstrationを組織。
毎月2回参加自由の空間と表現についてのミーティングテーブル「PLANT」を始める。 |
1998 |
30年後にアートセンターとして変換可能な複合ビル「e-terrace」を鹿児島に竣工させる。
単純労働がしたくなり動物彫刻家「楠 丈」を独立させるが、作風から正体ばればれ。
Plant Demonstrationとして福岡の小学校跡地で活動を展開「公庭は素晴らしい」を制作。 |
1999 |
2年半の家庭から排出された「Vinyl Plastics Collection」を発表。生涯続ける決心をする。
夢をえさに現実をリサーチする「バクの夢」を起動。OSとしての表現活動を目指す。
最近ようやく本気で表現活動を展開する基礎体力と基礎認識が身に付いたと感じる。 |