アートスフィア灰塚 2000アーティスト・イン・レジデンス
■□ 第一期:福井裕司  FUKUI Yuji
 ■ 経歴
  1967 宮城県仙台市うまれ
  1991 東京芸術大学美術学部建築科卒業
  1993 AAスクール(英国)ディプロマ取得
  1994 ロンドン大学バートレット校 大学院修了
  1996 帰国
  1997 東京芸術大学美術学部建築科 助手
  2000 同 非常勤講師
 ■ 主な活動
  1996- 灰塚アースワークプロジェクトに参加
  1996 アレン・フィンケル氏の野外彫刻、通訳/制作アシスタント
  1996- アースワークスクール
  1997- 吉舎町、知羽大橋高欄プロジェクト
  1999 小さな美術館:回転窓
 **** 以上、灰塚アースワークプロジェクト関連
  1997 「IF 2000」空間設計/制作 恵比須ガーデンプレイス(東京)
  1999 「soft machine bar」 空間設計/制作(福岡)
  1999 「small house/big workshop」 空間設計/制作(東京)
  2000 「circle'n'circle」 感覚ミュージアム(宮城)
  2000 「さまざまな眼 112《ジュリオ・ロマーノもまた、才能がある。》」
かわさきIBM市民文化ギャラリー
福井裕司
御調谷地区
作品展示風景
福井裕司:レクチャー

円というリアリティ
コンパスを用いて半径と中心を決めれば円を描くことができる。また、インク一滴を紙の上に静かに落とせば重力や液体といった自然の力によってきれいな円が出来上がる。そこには、予め決めた半径や中心点はない。おおよそ検討はつくが、結果的に出てきたものがその形となる。しかし、その滴で出来た円は細かく見てみれば、必ずしも正円ではなく歪みを含んでいる。地球もそうであり、きれいな球形をしているが、厳密には完全球ではない。たとえ、理屈に従ってコンパスを用いたりコンピュータを用いて描こうが、拡大してみれば常に輪郭はギザギザである。理屈では成立しているが、現実的には多少の誤差や歪みを含まざるを得ない。
この理屈と現実の相違を認めざるをえないし、その相違が含まれるということがまた現実となる。では、完全な円とは?あるいは現実的な円とは?ミクロな視点で見ていけば、ほとんど完全な円を現実の上につくり上げることは困難となろう。人間の知覚認識の限界を超えなければならないのかもしれない。テクノロジーの進化によって新しい機器や素材によってそれが可能になるのかも知れないが、そこまで正確な円をつくりあげる目的の方がこの場合より関心事となる。
完全な円は現実的に存在を困難とするが、完全性という象徴としては長い間機能してきたのではないか。つまり印象や想像としての円/完全である。印象や想像のなかでは、現実の時間の経過とともにその円/完全というイメージが刻々と補正され、現時点では完全ではないが徐々にその状態に向かっているといった営みがより丸さを与えてくれるのかも知れない。おそらく、一旦提示されてしまった円は静止画像のように、あとは正円かどうか検証されるのを待っているかのような状態に受け取られ、イメージの中での円は常に完全性という目標にベクトルは向けられており、動的で可能性を与えてくれるものとして受け取られることがより円/完全というリアリティを伝えてくれるのではないか。

回転運動
円は形態的には閉じており完結する意味も含まれるが、同時にぐるぐると回転するイメージも与えてくれる。どちらかと言えば、その回転運動が結果的に円という形態をイメージさせてくれるのではないか。つまりその回転運動が形態より先行しており、その運動を静止画的にとらえたものが結果として形態を生み出しているのかもしれない。とは言っても、円=回転運動と言う訳ではない。メカニズムについてはそうなのかもしれないが、「ぐるぐると」という回っている雰囲気が伝わることの方がこの場合より重要となる。円は静止画の中で描けるが、回転そのものは静止画の中では表現しにくい。大抵矢印などを用いて回転を表したりするが、それは単なるメカニズムについて伝えているのであり、状態を伝えているものとは異なる。ものごとのリアルな状態はあまりにも具体的すぎるため約束事をきめて抽象化しないと表現や伝達が困難となる。そのために表現や伝達に懲り過ぎて、そうしている間にみるみるとその回転力は衰えていく。

理解と再現
ものごとのメカニズムを理解しようと我々は努力するが、理解できたとしても、それを次に自由に再現するためにはまた異なる努力が必要となる。理解する上では理路整然と そのメカニズムを把握するのはよいが、その組み上げたメカニズムを駆動するためにはもうひとつ別の力が必要となる。つまり、いくら緻密に理解したとしてもそのままでは単に紙の上の組立図かフリーズしている精密機械のようなものだ。

終わりと現実世界との接点
例えばこの文章を書いている際にも、常に時間は流れているわけであり、終始同じ地平を維持しながら話を進めることは意外に難しいと感じられる。恐らく相当神経を集中させてスタート地点を見据えておくか固定しておかなければ、徐々に話の内容が当初の予定や進むべき道から外れていってしまう。その度に前に戻って読み直し少し前に考えていたことを想像し直さなければならない。しかし、一旦読み返してみると今度はそれから触発されるのためなのか異なるイメージが喚起される。そのような手順を経て、これらの文章は少しずつ繰り返し上書きされながらつくりあげられていく。仮説をたて、それを証明し、結論に導くようなかたちで完結するように構築することもあるが、その場合完結しているがためにその状態が何となく符に落ちなく感じさせることもある。これでおしまいなのか? 本当にそうなのか? という具合に。
つまり、どのように終わるかが次の問題となってくる。誰もが最後は切れ味よく終わらせたいと思うが、書いている本人の主張とそれを受け取る側の反応を考慮して、曖昧に問題点を投げかける言い回し(「・・・であろう。」、「・・・ではないか。」、「・・・でありたい。」、「・・・なのかもしれない。」)で終わることがしばしばある。それらは、やや臆病なやり方なのかもしれないが、終わりを迎える時に音楽や映像のようにフェイドアウトするとか、その余韻を一種の可能性として読む側の現実世界に残しておきたいといった、気遣いや手法なのかもしれない。完全な証明を実行し確信があるのならば、そのまま断定して終わらせればよい訳だが、必ずしも断定できることばかりを書き続けられる訳でもないし、断定できない曖昧に感じることも書き記しておきたいこともある。けれどもあまりにそのようなことを書き連ねてばかりいれば、言い訳や独り言ばかり言っているようにも感じられる。しかしながら、これ以上もう書くことができないという訳でもない。時間があれば少なからずもう数行は書き加えられるぐらいの余力はいつも残っている。特に締めきりなどの期限がない限り、幾らでも書き加えていくことが可能であるような気がする。

余力、惰性
再び、円について話は戻るが、この「幾らでも書き加えていくことが可能」という余力こそが、円に生じる回転運動そのもののような気がする。特にある意志を推進力として回転しているのではなく、地球の自転のようにあるきっかけを発端とし(この場合そのきっかけを追求することはそれほど重要ではないだろう)その惰性で回転しているような感じである。恐らく生命や時間がある限りそれは延々と回り続けるのだろうけれども、意図的に回そうというのとは状態が異なる。円環運動のように同じところを辿ったりもするが、一周前と今、或いは一周後では上書きされるごとに異なる出来事が発生することだろうし、必ずしも同じことを繰り返している訳でもない。回転の軌跡も正面からみれば円なのかもしれないが、真横からみれば(時間の流れも考慮すれば)実際はより立体的で螺旋を描いているように見えるのかもしれない。
輪郭としての円というより、回転あるいはさらにそれの惰性のエネルギーがもたらす円の方がより円としてのリアリティを感じる。そのような時にこそ、丸いものが本当に円に見えてくるし、地球の自転も体感できる。
そうして、世界が目の前に現れてきて、はじめて世界が丸く見えてくる。

アーティスト・イン・レジデンス伊部年彦新生活福井裕司南川史門山内崇嗣
アーティスト・イン・レジデンス福永信藤枝守吉野裕ビル・アーノルド
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